北国街道(追分宿〜善光寺宿)
2006.05.21 〔走行距離 約83km〕
北国街道(ほっこくかいどう)の本街道は、京都から越前・越後を回り、追分宿で中山道となる街道です。
しかし、江戸時代になると佐渡からの金銀を江戸に運ぶための「金の道」。
また、善光寺参りにも使われていたため、「祈りの道」とも呼ばれていました。
そんな北国街道ですから、脇街道、往還道がたくさんあります。
今回は、中仙道からの分岐点である追分宿から善光寺宿までを旅しました。
マップは、プロアトラスW3。標高グラフは、カシミール3Dで作成。(走行ルートは、緑のラインです。)
浅間山がきれいに見えています。 今日は、絶好のツーリング日和。 |
追分の一里塚です。 一里塚にしては珍しく、道の両側に残っていました。 |
追分宿の高札場です。 昭和58年に、当時の古文書等を元に復元したそうです。 |
分去れの道標(わかされのみちしるべ)です。 右は、北国街道、姨捨山の「田毎の月」で知られる更科へ。 左は、中山道で京都へ、そこから桜の名所、奈良吉野山へ向かうと書いてあるそうです。 |
浅間山です。今でも、噴煙を上げています。 右が浅間山。左は、この位置からですと、篭ノ登山ですか。 篭ノ登山の奥には、有名な地藏峠があります。標高約1,730mの峠です。一度は、行ってみたい峠です。 |
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平原の一里塚です。 なんともさびしい限りです。 そのうち、何があったのか、分からなくなりそうですね。 |
小諸宿です。 この蔵は、いつごろ建てられたのか。 醤油と味噌の文字が読めます。 |
小諸本陣です。 北国街道には珍しく、現存していました。 |
懐古園です。 この門は、小諸城三の門です。 立派な造りでした。 |
小諸宿と海野宿との間にあった一里塚跡です。 牧家の一里塚跡です。 こんな立派なものは要りませんが、先ほどの一里塚も何とかしてほしいものです。 |
さて、今回のツアーの目玉である海野宿に到着しました。 この宿は、宿場町を再現してあります。 「日本の道100選」にも選ばれているほど有名なところです。 しばし、時間を忘れて歩きましょう。 |
見てください。この街並み。感動するでしょう。 旅人が、アー着いた。と思いたくなるのもわかります。 でも、この宿場街は、何かが違うと思いませんか????? そうです、後ろに山が見えないのです。 中山道の贄川宿や妻籠宿は、街並みの後ろに山が見えています。 |
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さて、私たちもちょっと早い昼食を・・・。 あれ、とりあえず・・・ですか。 |
せっかく信州を旅しているのですから、やはり「そば」ですね。 ここのそばは、平そば。 でも、つるつるとしていて、とてもおいしかったです。 |
海野宿の名物?は、この再現された街並みと「卯建」です。 「うだつがあがる」の語源となったのが、この「卯建」です。 「卯建」は、民家の両妻に屋根より一段高く築いた防火壁です。しかし、時代とともに装飾性が高くなり、屋根に沿ってついているものを「本卯建」、一階屋根から袖壁がのびる装飾的な「袖卯建」があります。 この「卯建」が裕福な家のシンボルだったために、「うだつがあがる、あがらない」という言葉が生まれたそうです。 久しぶりに、きれいな街並みを見られました。 この他に、北国街道では、街並みを再現させている宿場町がありました。 やはり、電柱電線はNGですね。 |
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上田宿の上田城跡です。 真田幸村の父、昌幸が築城した上田城。 しかし、上田城の家紋は三つ。 真田氏の家紋は、六文銭紋。 その後の仙石氏は、永楽通宝紋。 最後の松平氏は、五三の桐紋。 |
この大きな石は、真田石と呼ばれています。 上田城築城のときに、太郎山から掘り出したそうです。 しかし、でかいですね。 当時、どうやって運んだのか。 |
途中、坂木宿(現、坂城)、戸倉宿、矢代宿(現、屋代)をとおり、いよいよ、千曲川を渡ります。 その後、篠ノ井追分宿、丹波島宿をとおり、無事、長野駅に到着。 実は、海野宿の印象があまりに強かったため、他の宿場町に行っても「なんだー」と気が抜けてしまう始末。 今考えれば、もうちょっと本気出して観てくればよかったと後悔してます。 |
さて、輪行準備も完了。 長野駅前食堂で、いつもの打ち上げ。 今回は、看板娘がいませんでした。 今度は、どこの街道ですか。 東海道脇街道の姫街道や南山通りの倉谷宿や大内宿、行きたい所はたくさんあります。 そろそろ中山道最終章の計画でも。 |