日本橋〜越ケ谷宿
2006.06.04 〔走行距離 約87km〕
いよいよ、日光道中に挑戦です。
日光道中は、二十一次。
まずは、いつものとおり、日本橋から。
今回は、途中ちょっと寄り道。
おいしいものを食べてきました。
日本橋を横から撮って見ました。 石造りの重厚なつくりになっています。 中山道、日光御成街道、日光街道と三度目の日本橋になります。 日本橋から次の宿、千住宿までは、二里八町です。 |
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ビルの谷間に、ひっそりと道標が建っています。 特に、この道標は、保護色になっているため見過ごしてしまいます。 今回は、Flat隊長に教えていただきました。 |
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浅草見附跡です。 浅草橋の袂にあり、浅草御紋の入口にあたるそうです。 |
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この橋は、八幡橋と言われています。 明治11年に東京府が依頼した鉄橋です。 もと京橋楓川(現中央区)にかけられ弾正橋と称していたそうです。 鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過渡期の鉄橋として、技術史上価値が高い橋だそうです。 橋には、菊の御紋章がありました。 |
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今回のメインイベント。 実は、深川飯を食べてきました。 以前から、nekoyanさんが行きたがっていた所です。 富岡八幡宮の真前の店で、美味しくいただきました。 |
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お決まりのビールと深川飯です。 nekoyanさん、そんなに慌てなくても・・・。 誰も取ったりしませんよ。 |
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芭蕉が、深川を出発したその時です。 何を考え、何を思いながら旅立ったのでしょう。 「草の戸も 住替る代ぞ ひなの家」と詠んでいます。 |
浅草御蔵跡です。 江戸時代に幕府の米蔵のあった所で、上流から一番から八番まであり、米船が乗付けられるようになっていたそうです。 |
これは・・・。 アサヒビールビルの上にある「あれ」ですね。 以前、「あれ」にザイルをかけて清掃作業をしていたのを目撃してしまいました。 想像すると・・・。いや、やめておきましょう。 |
千住宿、小塚原の刑場場跡にある、延命地蔵です。 別名、首切地蔵。 この刑場では、明治に廃止になるまで、約20万人の人が、ここで刑死しているそうです。 |
いよいよ、千住大橋を渡ります。 この橋は、隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋だそうです。 江戸から東北への唯一の橋であり、松尾芭蕉が奥州への旅で人々と別れた所でもあります。 |
こんな立派な道標もありました。 嬉しい限りですが、なんか派手! |
千住宿の現在の商店街です。 今日は、日曜で歩行者天国になっていました。 また、こんな旧家も残っています。 伝馬屋敷というそうで、江戸時代に建てられたものを昭和11年に修復し、現在に至っているそうです。 |
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いよいよ、草加宿です。 草加宿は、以前訪れた事があるところです。 |
芭蕉の碑です。 芭蕉が、「奥の細道」にたび立つ姿だそうです。 当時、深川を出た芭蕉は、千住まで船で行き、日光街道第二の宿駅だった草加にたどり着いたそうです。 友人や門弟が残る江戸との名残を惜しむように、見返りの姿をしているそうです。 |
松並木が、綾瀬川沿いに続きます。 | 蒲生の一里塚です。 この一里塚は、埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚だそうです。 |
越ケ谷宿の入口にあった「里程表」です。 この表によると、鳩谷宿、川口宿、大宮宿、浦和宿、東京雷門と書いてある?? |
越谷宿にも旧家が現存していました。 末永く残してほしいものです。 今回は、江戸、千住宿、草加宿、越ケ谷宿まで旅をしました。 まだまだ、先は長いです。 続きは、また、お楽しみに。 |